忙しいのに余裕がある人の、静かな時間術

控室の白いソファに腰を下ろし、まだ温かいコーヒーを両手で包んでいた。次の撮影まで四十分ほど空いている。ヘアメイクさんたちの小さな笑い声と、遠くでシャッターの切れる音が混ざり合って、独特の安心感があった。こういう隙間時間に、私はよく文章を書いている。「忙しそうだね」と言われることが多い仕事だった。たしかに移動は多いし、朝も早い。けれど不思議なことに、昔より今のほうが自由な時間は増えていた。以前の私は、常に時間に追われていた。予定はぎっしり、通知は鳴りっぱなし。なのに一日が終わる頃には「今日も何もできなかった」と感じていた。忙しかったはずなのに、手応えがなかった。あるとき気づいたのは、時間が足りないのではなく、余計なものが多すぎたということだった。予定、物、情報、人間関係。どれも大切に見えて、実は「なんとなく続けている」ものが混ざっていた。それらは少しずつ時間を奪っていた。音もなく、確実に。そこで私は、足すことをやめて、削ることを始めた。まずやめたのは、意味のないスマホ時間だった。移動中、待ち時間、寝る前。手が勝手に画面を開いていた。見たいわけではないのに、指が動いていた。そこで「開く前に一呼吸」をルールにした。深呼吸一回。それだけで、半分以上のスクロールは消えた。次にやめたのは、「一応」の予定だった。気が進まない食事会、惰性で続けていた集まり。断るのは勇気が必要だったけれど、時間が戻ってきた感覚があった。不思議なことに、削るほどに心は軽くなった。スケジュールが白くなると不安になると思っていたけれど、実際は逆だった。余白があると、呼吸が深くなった。自由な時間は、どこかから降ってくるものではなかった。守らないと、すぐに埋まってしまうものだった。撮影の合間に本を読む時間。早起きした朝の静けさ。予定のない夜に湯船につかること。そういう小さな余白が、私の感性を取り戻してくれた気がしている。忙しい毎日を変えるのに、大きな決断はいらなかった。「やらないことを決める」だけでよかった。もし今、時間がないと感じているなら、何かを始める前に、ひとつやめてみるといいかもしれない。アプリを一つ消すでもいいし、気乗りしない予定を一つ断るでもいい。時間は増えない。でも、取り戻すことはできる。そろそろ名前が呼ばれそうだった。コーヒーはもう冷めている。スマホを閉じて、私は立ち上がった。余白のある一日が、また静かに動き出していた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました